今回は、アラン著『幸福論』をご紹介します。
世界には数多くの『幸福論』がありますが、アランの作品は、カール・ヒルティ、ラッセルと並ぶ世界三大幸福論の一つです。
本書は、「本当の幸福って、なんなの?」という私たちの素朴な疑問に答えてくれる不朽の名作です。
ジャンルとしては哲学書ですが、難しい言葉で「幸福とは~」と語っているわけではありません。
日々の暮らしの中の「哲学的な考え」がエッセイに近い作風で書かれています。文学的な美しさも高く評価されている作品です。
しかし、その独特の表現が、慣れない人には少し読みにくいかもしれません。実際、私も予備知識もなくいきなり本書を読んでみて、意味が分からずに断念したことがあります。
そこで、解説書と一緒に読み進めていくことをお勧めします。
この記事でも『NHK「100分de名著」ブックス アラン 幸福論』(合田正人著/NHK出版/2012)を参考にしていきたいと思います。
『幸福論』のエッセンスを知るだけでも役に立ちますし、この記事を読んでから実際に本書を手に取っていただいても、内容を理解しやすくなるはずです。
本書と共に「本当の幸せ」をみつけにいきましょう。
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著者アランと『幸福論』について
『幸福論』の内容を見ていく前に、著者アランと『幸福論』という作品について触れておきます。
アラン、本名エミール・シャルチエ(1868~1951年)は、フランス・ノルマンディー地方に生まれた哲学者です。
アランが生きた時代はちょうど世界の変換期であり、第二次産業革命で人々のライフスタイルが大きく変化した時代でした。
1914年には第一次世界大戦が勃発し、兵役を志願して戦地で戦ったりもしています。
哲学に目覚めたのは高校生の時、ジュール・ラニョーという教師に出会ったことがきっかけです。
24歳で高等師範学校を卒業し、哲学の先生になったアランは、その後フランス各地の高校を転々とし、引退するまで教鞭をとりながら執筆活動を行いました。
1900年、32歳から「ロリアン新聞」にアランというペンネームで「プロポ」を寄稿するようになります。
「プロポ」という表現形式はアランの代名詞とも言われているのですが、これは便箋 2枚程度で1つの話題について書くという、今でいうコラムのようなものです。
彼はその生涯で五千を超えるプロポを執筆したとも言われています。
その中で「幸福」についての93編のプロポを集めたものが今回ご紹介する『幸福論』(1925年)※になります。※1925年の初版では60編のプロポを収録
アランにとっての「不幸」とは?
本書のテーマは「幸福」ですが、その反対の「不幸」についてアランはどのように捉えていたのでしょうか?
『幸福論』には、自分のことを不幸だと思っている人がたくさん出てきます。
しかし、どういった状況が「不幸」なのか、何を持って「不幸」とするのかは人それぞれです。
アランは本書の中で“本物の不幸については、ぼくは何も書いていない。”と言っています。
アランが書いたのは「(本当は不幸でないのに)自分を不幸だと思う」人についてです。
なぜ、人は不幸を作り出してしまうのか?
その原因は「情念」にあります。
聞き慣れない言葉ですが、怒り・不安・不満といったネガティブな感情のことだと思って差し支えないと思います。
人間は、太古の昔から不安や恐怖を敏感に感じるようにできています。
草むらから聞こえてくるちょっとした物音にも恐怖を感じられるから、野生動物に襲われるのを防ぐことができました。そうしたリスクが無いに等しい現代でも、その基本構造は変わりません。
つまり、人間のデフォルトは「情念( =ネガティブな感情)に支配されやすい」「不幸になりやすい」状態なのです。アランは次のように言います。
不幸になるのは、また不満を抱くのはやさしいことだ。ただじっと座っていればいいのだ、人が楽しませてくれるのを待っている王子のように。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
「不幸」な状態に陥らないためには、いかにしてこの「情念」に囚われないようにするかがポイントになりそうです。
「情念」の「原因」を見極める
幼な子が泣いてどうにも泣きやまない時、乳母はしばしば、その子の幼い性格について、好き嫌いについてまことにうまい想定をあれこれとするものだ。これは親から受け継いだものだから、と言って、すでにその子のなかに父親の姿を認めるのだ。こうした心理学的詮索が続いて最後にようやく乳母は、すべてのことが生まれたほんとうの原因、つまりピンを見つけるのである。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
乳母は、赤ん坊が泣き止まないことについて色々な憶測をたて、父親の性格に問題があるのではないかとまで考えます。
しかし、赤ん坊が泣いている本当の原因は「産着の中にピンが挟まっているから」という極めて単純なものでした。
アランは恐怖や不安を感じるのに身を任せて、それを増幅させるのではなく、それを引き起こしたピン、つまり「原因」を探せと言います。
人は「原因」そのものではなく、それがもたらした苦しみの方しか見ようとしないため、「不幸」を感じてしまうのです。
だれでも知っているように、ふくらはぎが痙攣したら、どんなに我慢強い人でも悲鳴をあげる。でも地面にぴったり脚をつけて踏みしめたまえ。すぐになおるから。目のなかに小さな虫やゴミが入ってそれをこすったら、二時間も三時間もわずらわされる。しかし、手は使わないでじっと鼻の先を見つめたらいい。すぐに涙が出てきて楽になるから。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
本当の「原因」さえわかれば多くの場合、なんらかの対処法はあるものです。
「情念」に支配され、振り回されている状態では、本当の「原因」からますます遠ざかってしまいます。
「原因」の多くは身体的なもの
アランは、「情念をどう制御するか」についても実践的なヒントを多く示してくれています。キーワードは「身体性」です。
普段はあまり意識しませんが、私たちの「心」と「身体」は繋がっています。
人がいらだったり不機嫌だったりするのは、よく長時間立たされていたせいによることがある。そんな不機嫌にはつきあわないで、椅子を出してやりたまえ。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
不機嫌の理由は単純で、「長時間立たされていた」からであり、それを治すための方法も「椅子に座って休憩する」と、極めてシンプルです。
なんとなくイライラする、モヤモヤする…その原因は、
- 寝不足だったから
- 昨日お酒を飲み過ぎたから
- お腹が空いているから
など、身体的なものかもしれません。
また、アランは私たちの「心」の状態は、姿勢や態度として「身体」に現れると言います。
退屈している人は、退屈そうな姿勢で退屈そうに話すし、元気がない人は、だらりと項垂れているものだと言うのです。
確かに、何かにひどく傷つき悲しんでいる人が、背筋を伸ばしてシャキッと前を向いていることって、あまりないですよね。
アランは、「心」と「身体」がリンクしているからこそ、「行動 (身体活動)」が「情念」を振り払うための、有効な対処法になると考えました。
「行動」によって「情念」を抑制する
しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
身体活動が先にあって、それに合うような感情を後付的に作り出しているということは、近年科学的にも証明されつつあります。
先ほど、不機嫌な人は不機嫌な姿勢、態度、話し方をしていると書きました。
そのため、機嫌よく過ごすためには、その反対の「行動」をとればよいとアランは考えました。
つまりは、にっこりとほほ笑み、姿勢を正し、ゆったりと呼吸し、礼儀正しい所作と言葉遣いをすればいいのです。
「礼節=礼儀正しく振舞うこと」は、自分自身の情念を抑制する手段になります。
舞台に立つのを死ぬほどこわがっていたピアニストが、演奏しはじめるやいなやたちまち直ってしまうのをどう説明したらよいか。その時はもう恐怖など考えていないのだというかもしれない。その通りなのだ。でもぼくは、恐怖の正体を仔細に考えて、ピアニストはあの指の柔らかい運びによって恐怖を揺り動かし、追い払ってしまうのだと理解したい。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
ここでも、人を「情念」から解放するのは、「思考の働き」ではなく「体の動き=行動」であることを言っています。
理屈でもって考え、身動きが取れなくなってしまうのではなく、何よりも「行動」することが大事ということをアランは繰り返し述べています。
「情念」は「伝染」する
買い物をしようとコンビニに入って、ものすごく失礼な店員に接客されたら、皆さんはどう感じるでしょうか?
多くの人は、苛立っている人を見ればこちらも何だかイライラしてくるし、不機嫌な人といると、嫌な気分になってしまいます。
アランはこの現象を「伝染」と呼びました。
先ほど、「情念」を「礼節=礼儀正しく振舞うこと」によって制御しようという話しをしましたが、これは自分自身のためであり、同時に他人のためでもあります。
人ごみのなかでちょっと押されたくらいなら、まず笑ってすますものと決めておきたまえ。笑えば、押し合いは解消する。なぜなら、ちょっと怒りすぎたな、とだれもみんな恥ずかしくなるからだ。そうすれば、君はおそらく、大いなる怒りを、すなわち小さな病気をまぬがれる。 ぼくの考えている礼儀作法とはそういうものなのだ。つまり荒ぶる情念をなだめる体操なのだ。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
自分の「情念」が他人に「伝染」をするのを断ち切り、代わりに「幸せ」を伝染させる所作こそが礼節です。
そう考えると、礼節は「マナー」という次元を超えて、非常に大切であることが分かります。
幸せは義務である
なるほど、われわれは他人の幸福を考えねばならない。その通りだ。しかし、われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである。このことに人はまだあまり気づいていない。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
アランは自らが幸せであることが他人に対する最大の貢献であるとしています。
自分の幸せを一番に考えることは、利己的で自分勝手なようにも感じてしまいます。
ですが、泳げない人が溺れている人を助けられないように、幸せでない人が他人を幸せにすることはできません。
ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものなのである。
神山幹夫訳『アラン 幸福論』株式会社 岩波書店(1998年)
人間のデフォルトは「不幸になりやすい」状態と書きましたが、だからこそ自らの「意志」と「行動」で「幸せ」になるよう努力しなければならないのです。
幸福になることを「他人のためでもある」と考えられれば、純粋に「幸せ」を求める私たちの気持ちも、今よりずっと価値のあるものとして大切にしていけそうです。
終わりに
いかがだったでしょうか?
約100年前の作品にも関わらず、現代に生きる私たちにも、多くの気づきを与えてくれる内容だったと思います。
いつの時代も「幸福」を願いながらも、なかなかうなくいかない人々の姿はあまり変わらないのかもしれませんね。
冒頭でも書いたように、独特の作風が慣れてない人には読みにくいかもしれませんが、アランの言わんとすることを一度頭に入れてから読むと、ぐっと理解しやすくなります。
また、読み進めている内に、段々とその文体にはまってくるというか、心地よくなってくるというか…不思議な魅力のある作品です。
興味を持っていただいた方は、ぜひ本書を手に取ってみてください。
この記事が何かお役に立てれば嬉しいです。最後まで読んで頂いてありがとうございました。
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